
おこんにちは!ガル山(@GaruGaru_nyaaan)です!
今日は過集中が働いているので、そういう時にどんどん記事を書いていこうという思惑でいます…へへへ…。
さてあまり自分語りが得意でないガル山ですが、やはり自分の歴史を語るのがメンヘラだろということでぼちぼち語っていきたいと思います。
幼少期・小学校編スタートです!
言葉の出が早い子供だった
母子手帳をみたり、母の話を聞いたりすると、わたしはわりと言葉の出が早い子供だったようです。
1歳11か月で上の弟が爆誕するのですが、その時に放った言葉が
「おかあさん、赤ちゃん病院にかえしてきて??」
だったというのは語り草です。
小さいころからジャイアン系の子供で、弟を奴隷のように連れまわして遊んでいました(弟はなぜか喜んでいた)。
ただ 母の話を聞いていても、自分自身で振り返っても、発達傾向があったかというとそれは全くわかりませんでした。
唯一覚えているのは、時計の概念を理解するのが遅かったことです。
ひらがなの読み書きは早くに覚えた子供だったのですが、先生に「長い針が10のところになったら戻ってきてね」などと言われてもいまいちピンとこなかった覚えがあります。
小学校入学
小学校では入学早々やらかします。
はい、不注意です。
先生が「オリエンテーションがあるので1年生は休み時間はありませんよ」と言ったにもかかわらず、外に遊びに出かけて捜索されるという事件がありました。
高校を卒業するまでずっとあったのは、ノートやプリントへのお絵かきでした。
時には夢中になりすぎて先生が真ん前に立っていることに気付かないことも。
当時の通信簿にも言葉遣いが乱暴・お絵かきに夢中になって授業を聞いていないなどの記述があります。
授業は聞いていなかったのですが、中途半端に勉強ができてしまったのも発達発覚の妨げになったと思います。
しかし九九の暗唱は学年の最後まで完璧にはできませんでした。紙に書けばできるのに、暗唱となると途端にできなくなるんです。
このあたりはワーキングメモリの弱さがでていたのかなと思います。
また宿題ができず、いつもゲームをしていた覚えがあります。
宿題は一切提出せず。これは高校生まで続きました。
ランドセルを忘れて家を飛び出したことも2回ほどありました(弟に取りに行かせて母にバチクソ怒られた)。
あとは性に関する認識があいまいで、3年生の頃の水泳の授業の着替えの時に、上半身はタオルをかぶらず着替えて先生に注意されたことがありました。
女の子だから隠さなきゃいけないということに鈍感だったんですね。
そんなわたしだったので、女の子が興味を持つ遊び(お人形、おしゃれとか)には全く目もくれず。
段々と友達が男の子だらけになっていきます。
お人形遊びも嫌いではなかったんですが、それよりも外で虫取りしてた方が楽しかったんです。
学年が上がるにつれて、ジャイアン気質は積極的という評価をされるようになっていきます。
実行委員や係の仕事を引き受けたりということに、臆せず自分から手を挙げるタイプでした。
なので先生ウケはとても良かったと記憶しています(成績もよかった)。
高学年になるとおしゃれに目覚めたりするものですが、我が家は母もそういうことに疎かったこともあり、全く興味がありませんでした。
そしてそのまま、男子とつるみ、おしゃれにも興味がないまま中学生になってしまうのでした。
体調不良と発達障害
学校生活ではやらかしながらも順調な日々を送っていました。
おおむね楽しかった記憶があります。
しかし 朝がとにかく弱い。夜もなかなか寝れない。
そして頭痛や腹痛など、謎の体調不良が多く、同級生よりも休みがちだったと思います。
行けばケロッとしてるのに、行くまでが億劫で億劫でしかたないことが多々ありました。
機能不全家族の気配
小学校中学年あたりから、我が家に機能不全家族の気配が忍び寄ってきます。
わたしが5歳の時に末の弟が身体障害をもって生まれ、それ以降母がその介護につきっきりになったんです。
母も機能不全家族で育ち、毒親(わたしから見た祖母)の影響をもろに受けています。
そして発達傾向もある。
人に頼ることが下手で、何でも自分でやろうとする。
完璧主義でこっちが大変だからこっちはいいやと手抜きができない。
そんな母が徐々に病んでいきます。
一方父はややASD気質があり、人の気持ちを汲むのが下手な人です。
わたしたちのことは積極的に世話をしてくれたし、家事も進んでやっていましたが、母がいっぱいいっぱいになっていることに気付けないでいたのだなと、今振り返ると思います。
これは何度かTweetしたことがあるのですが、小学校4,5年生あたりで強烈なエピソードがあります。
我が家は冬になったら毎日夕方になったら雨戸を閉めるという決まりがあり、その日は留守番をしていた上の弟とわたしが閉めなければいけませんでした。
しかしアホ2人なのでゲームに夢中になり、閉めずに遊んでいたのです。
そして夜、当時入院していた下の弟の病院(片道1時間くらいかかる)から母が帰ってきました。
玄関を開け、母がわたしたちを呼びます。
そこで「あっ 雨戸閉めるの忘れた!」と気付くわたし。
正直いつものことだったので、また怒られるや…と思いながら外に出ました。
すると母が突然激高からの絶叫。手に持っていたお土産のケーキの箱を地面に叩きつけたのです。
わたしと上の弟は茫然。
母が顔上げると、そこにはなぜか満面の笑み…。
そして機嫌よく「箱拾って!みんなで食べようね!」と。
砂利の上でつぶれてしまった箱を3人で拾って家の中に入り、食卓に着くと、フォークが差し出され、本当に3人で箱がつぶれてぐちゃぐちゃになったケーキを食べたのです…。
(書いてて狂気すぎて引く)
美味しいね!という母を無視できず、同じハイテンションで美味しいね!と返して完食したのを覚えています。
この頃と同じくらいのタイミングで父も変化しはじめました。
疲れて家事の手伝いができなかったりすると、母がいないところでわたしのことを「このバカ女」と罵るようになってきました。
また母に対して些細な事で激高して怒鳴りつけることもありました。
母は機能不全家族で育ったこともあり、喧嘩のしかたがわからなかったのでしょう。いつも黙って怒鳴られていました。
ある時は泣きながら家を飛び出し、夜中12時をすぎても戻ってこないこともありました。
母はこの頃よく台所の水道のところで吐いていました。
今思えば異常なことなのですが、父も何か声をかけるわけでもなし、母自身も吐きおわるとすぐまた家事に戻るしで、何が普通か知らない子供のわたしは家族の中の異変に気付くことができなかったのです。
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